「深める」と「広げる」を同時に回す訪問看護経営|オライリー&タッシュマンの両利きの経営

既存事業を深化させながら新規展開を同時に推進する「両利きの経営」は、訪問看護事業者が持続的成長を実現するための実践的フレームワークです。本記事では理論の本質を解説しつつ、訪問看護・デイサービスの同時展開というFootageの実体験を通じてその具体的な回し方を明らかにします。

経営の現場でよく耳にする葛藤があります。「今の事業をしっかり固めてから次を考えるべきか、それとも今から手を打つべきか」という問いです。 既存の訪問看護ステーションが軌道に乗り始めたころ、私たちも同じ問いに直面しました。スタッフは増え、利用者も安定してきた。しかしそのタイミングで、新しい拠点展開やデイサービス開設の検討も始まっていた。現場は今でも忙しい。それでも「次」を考えなければ、気づいたときに手遅れになる——。 そのジレンマを整理するうえで大きな助けになったのが、チャールズ・A・オライリーとマイケル・L・タッシュマンが提唱した「両利きの経営(Ambidextrous Organization)」という概念でした。

両利きの経営とは何か——理論の核心

Exploitation(深化)と Exploration(探索)

両利きの経営の中心にある概念は二つです。 **Exploitation(深化)**とは、既存の事業・能力・知識を磨き上げ、効率を高め、収益を最大化することです。既存エリアでの訪問看護サービスの質を上げること、スタッフ定着率を高めること、単価を最適化することがこれにあたります。 **Exploration(探索)**とは、新しい市場・技術・サービスモデルを実験的に試みることです。新拠点の開設、デイサービスや居宅介護支援など関連事業への参入、ICT活用による新しいケアモデルの試行がこれにあたります。 問題は、この二つが本質的に相反する性質を持つことです。深化は「既知のことをうまくやる」ための厳密さ・効率性・一貫性を求め、探索は「未知に踏み込む」ための柔軟性・実験精神・失敗許容度を求めます。同じ組織が同じ文化・仕組みで両方を同時にやろうとすると、深化が探索を駆逐する——これが多くの組織が陥る「成功の罠」です。

なぜ深化だけでは危険なのか

深化に集中しすぎると、短期的には業績が安定します。しかし環境変化(制度改正・競合参入・人口動態の変化)が起きたとき、新しい対応手段を持っていない組織は一気に脆弱になります。介護・医療業界は特に制度変更の影響を受けやすく、「今うまくいっているから大丈夫」という思考は長期的には危険です。

なぜ探索だけでも危険なのか

一方、探索ばかりに注力して既存事業をおろそかにすると、財務基盤が崩れます。新規事業の多くは立ち上げに時間とコストがかかり、既存事業からのキャッシュフローがなければ継続できません。介護事業は特に初期投資と人材確保に時間を要するため、既存事業の安定が探索の燃料になります。

訪問看護経営における「深化」の実践

エリア内シェアの最大化

既存ステーションが展開しているエリアで、まだ取り込めていない利用者層はどこにいるかを考えることが深化の第一歩です。ケアマネジャーとの関係構築、退院調整看護師との連携、かかりつけ医への認知向上——これらは地道ですが確実に紹介ルートを太くします。 新規エリアに出る前に、既存エリアで「まだ掘れる余地がないか」を問い続けることが重要です。エリア内での紹介元多様化・利用者単価の適正化・訪問効率の向上は、すべて深化に属する取り組みです。

スタッフ定着と専門性の向上

訪問看護において最大の資源は人材です。スタッフが定着し、専門性を高め、自律的に動ける組織を作ることは、既存事業の深化そのものです。教育体制・評価制度・キャリアパスの整備は、短期的には間接コストに見えますが、長期的には訪問件数・質・利用者満足度をすべて向上させます。 Footageでは訪問看護ステーションの管理者育成と現場リーダーの権限移譲を進めることで、経営者が現場に張り付かなくても回る組織を目指してきました。これがあって初めて、経営者が「探索」に時間を割けるようになります。

業務プロセスの標準化と効率化

ケア記録・シフト管理・請求処理の標準化・ICT化は、スタッフの負担軽減と品質の均質化につながります。訪問看護システムの導入・最適化は典型的な深化の投資であり、これによって生まれた時間と余力が次の探索を可能にします。

訪問看護経営における「探索」の実践

新拠点展開——エリアを広げる判断軸

新拠点の開設は、最も典型的な探索活動の一つです。しかし「なんとなく近隣に出る」では失敗リスクが高まります。Footageが新拠点を検討する際に重視した判断軸は以下のとおりです。

  • 需要の確認:対象エリアの高齢者人口・要介護認定率・既存訪問看護ステーション数
  • 人材の見通し:開設時に採用できる看護師の見込みがあるか
  • 連携先の有無:ケアマネジャー・病院・診療所との接点が作れるか
  • 既存ステーションとのシナジー:物品調達・管理者サポート・緊急対応の共有が可能か 探索は「実験」ですから、最初から完璧を求める必要はありません。ただし、実験の規模と撤退基準を事前に決めておくことが重要です。「半年で利用者○名を達成できなければ規模を縮小する」という基準を持つことで、探索がリスクコントロールされた投資になります。

デイサービス展開——異なる事業軸への参入

デイサービスは訪問看護と同じ「高齢者ケア」という軸を持ちながら、サービスモデル・収益構造・スタッフ構成が大きく異なります。これは訪問看護の深化から生まれた知識・ネットワークを活用しつつ、まったく新しい能力を構築することを意味します。 Footageがデイサービスを展開した際の気づきは、「訪問看護で培った医療ニーズへの対応力が差別化につながる」ということでした。医療依存度の高い利用者を安心して受け入れられるデイサービスは、ケアマネジャーから見ても非常に紹介しやすい存在です。訪問看護の深化で積んだ専門性が、新事業の探索において強みになる——これが両利きの経営の醍醐味です。

深化と探索を「同時に回す」組織設計

なぜ同時に回すことが難しいのか

理論上は「深化と探索の両方をやれ」と言えますが、現実には深化と探索は資源を奪い合います。同じスタッフに「今の現場をもっと効率よくやれ」と「新しい取り組みを試せ」を同時に求めると、どちらも中途半端になります。 オライリー&タッシュマンの提言は「組織的に分離せよ」です。探索に関わる部門・チームは、深化の評価軸・プロセス・文化から一定程度切り離す必要があります。

小規模事業者における現実的な分離

大企業のように完全に部門を分離するのは中小の訪問看護事業者には難しい。では現実的にどうするか。 Footageで有効だったのは**「役割の分離」**です。現場管理者は深化に集中させ、経営者・経営幹部が探索に専念する時間を作る。新規事業の検討は、日常の運営会議とは別の場(月1回の経営戦略会議など)で行い、評価軸も分けて考える。 新規事業担当者には「既存事業の評価軸(稼働率・訪問件数)で評価しない」ことが重要です。探索の初期段階では赤字・低稼働は当然であり、それを深化と同じ物差しで測ると探索が萎縮します。

トップのコミットメントが鍵を握る

両利きの経営が機能するかどうかは、経営者のコミットメントにかかっています。深化と探索のどちらにどれだけのリソースを配分するかは、経営者が意図的に決めなければ、組織は自然と深化に流れます(目の前の利用者・スタッフ・数字への対応に追われるため)。 「今期は既存事業の安定化に70%、探索に30%のエネルギーを使う」という意識的な配分と、それを組織に伝えることが経営者の役割です。

両利きの経営が機能する条件——Footageからの示唆

既存事業が一定の安定をみせていること

探索を始めるタイミングは重要です。既存事業がまだ不安定な状態(スタッフが慢性的に不足・利用者が定着していない・財務が赤字)のうちに探索を始めると、リソース不足で両方が失敗します。深化がある程度軌道に乗った段階で、余剰のリソース(資金・人材・時間)を探索に投じるのが基本原則です。

「失敗を許容する文化」と「失敗から学ぶ仕組み」

探索は本質的に失敗と隣り合わせです。新拠点が計画通りに立ち上がらない、新事業が想定した利用者数に届かない——これは探索の「当然のコスト」です。重要なのは失敗を責めないことではなく、「何を学んだか」を組織に蓄積することです。 うまくいかなかった新拠点から得た学びが、次の拠点展開を成功させる資産になります。探索の失敗を「記録・分析・改善」のサイクルに乗せることで、探索能力が組織に育ちます。

深化と探索を結ぶ「コネクター」の存在

深化部門と探索部門が完全に分離すると、シナジーが生まれなくなります。既存事業の専門知識・ネットワーク・文化が新事業に活かされなければ、「ただ別々の事業をやっているだけ」になってしまいます。 深化と探索をつなぐ役割——訪問看護の現場知識を新事業に橋渡しする人材、既存事業の利用者ネットワークを新事業に接続する仕組み——を意識的に設計することが、両利きの経営を「経営統合」として機能させる鍵です。

よくある質問

Q. 訪問看護ステーション1拠点だけでも両利きの経営は意識すべきですか? A. はい。1拠点でも「今の利用者・スタッフ・紹介ルートを深めること(深化)」と「将来の成長に向けた準備(探索)」の両方が必要です。探索は必ずしも新拠点開設を意味せず、新しいケア領域への対応(精神科訪問看護の強化、医療依存度の高い利用者受け入れなど)も立派な探索です。 Q. 深化と探索のリソース配分の目安はありますか? A. 一般的には「70:20:10ルール」(既存事業70%、隣接事業20%、新領域10%)が参考にされます。ただし事業ステージや財務状況によって最適な比率は変わります。重要なのは比率を決めることではなく、「どこに注力するか」を経営者が意識的に選択し続けることです。 Q. 現場スタッフを探索に巻き込む方法はありますか? A. 探索の初期段階から現場の意見を取り入れるのは有効ですが、日常業務を担う現場スタッフを過度に探索活動に引き込むことは深化の妨げになります。「現場の課題や気づきをアイデアとして吸い上げる仕組み」は作りつつ、実行責任は経営層が持つことが現実的です。 Q. 新規事業(デイサービス等)を始めるときの失敗リスクをどう管理しますか? A. 「撤退基準を事前に設定する」「最小単位でスタートする」「既存事業のキャッシュフローへの影響額に上限を設ける」の三点が基本です。探索を「実験」と定義し、実験の規模と期間を決めておくことでリスクをコントロールします。

まとめ

両利きの経営は、訪問看護・介護事業者が長期的に生き残るための思考フレームです。「今を深める」深化と「未来を広げる」探索を意識的に分離しながら同時に推進することで、制度変更・競合激化・人口変動にも揺らがない経営基盤ができていきます。 大切なのは、この二つのモードを経営者が意識的に設計・管理することです。目の前の現場に引っ張られるだけでは、深化しか回りません。「今日の利用者を大切にしながら、3年後の自社をどこに置くか」——この問いを持ち続けることが、両利きの経営の出発点です。

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