看護師の「辞めたい」の正体|ハーズバーグの二要因理論から考える訪問看護の定着戦略

はじめに|「辞めます」の一言が重くのしかかる

訪問看護ステーションを経営・管理していると、ある日突然、信頼していたスタッフから「辞めたいと思っています」という言葉を受けることがあります。

採用に費やしたコスト、育成に注いだ時間、引き継ぎに掛かる負担——そうした現実的な損失を頭に浮かべながら、多くの管理者が「なぜまた?」と自問します。給与は業界水準を上回っている。休日も十分に確保している。人間関係も良好なはずだ。それでも、スタッフは去っていく。

この「なぜ」に答えを与えてくれるのが、経営学・組織心理学の古典的理論であるハーズバーグの二要因理論(Two-Factor Theory)です。

本記事では、この理論を訪問看護ステーションの現場に照らし合わせながら、「待遇改善だけでは定着しない理由」と「本当に機能する定着戦略」を具体的に解説します。

1. 訪問看護における離職の現状

1-1. 離職率データが示す深刻な実態

厚生労働省「令和4年雇用動向調査」によれば、医療・福祉業界全体の離職率は14.7%であり、全産業平均(15.0%)とほぼ同水準です。しかし、訪問看護ステーションに限定した調査では、実態はより厳しい数字が浮かび上がります。

日本訪問看護財団および各都道府県の実態調査によると、訪問看護ステーションにおける看護師の年間離職率は15〜20%台に達するケースが多く、小規模ステーション(常勤換算2.5人以上〜5人未満)ではさらに高い傾向が報告されています。

仮に常勤看護師5名の体制で離職率20%とすれば、毎年1名が退職する計算になります。採用コスト(求人掲載費・面接工数・内定後の手続き)は1名あたり50〜100万円とも言われており、3年間で150〜300万円が採用費用として消えていく計算です。これは、単純なコスト問題にとどまらず、残存スタッフの疲弊、サービスの質低下、新規受け入れ抑制という連鎖的な経営ダメージをもたらします。

1-2. 「なぜ辞めるのか」の定型的な回答

退職理由として管理者がよく聞くのは、次のような言葉です。

  • 「給与に見合った仕事量ではないと感じた」

  • 「休みが取りにくい」

  • 「上司・先輩との関係が難しかった」

  • 「一人での訪問が不安で孤独を感じた」

これらはいずれも重要な問題ですが、多くの管理者がこれらの改善に取り組んでも、離職がなくならないという経験をしています。その理由を解き明かす鍵が、ハーズバーグの理論にあります。

2. ハーズバーグの二要因理論とは

2-1. 理論の背景と概要

フレデリック・ハーズバーグ(Frederick Herzberg, 1923-2000)は、アメリカの臨床心理学者・経営学者です。1959年に著書『仕事と人間の本性(The Motivation to Work)』を発表し、職場における「満足」と「不満足」はまったく別の次元で生じるという革命的な理論を提唱しました。

それ以前の経営管理論では、「不満を取り除けば満足が生まれる」という一元的な理解が主流でした。しかしハーズバーグは、200名以上のエンジニアと会計士に対して「仕事で非常に満足したときの体験」と「非常に不満だったときの体験」をそれぞれ詳細に聴取し、そのデータを分析しました。

その結果、「満足を生み出す要因」と「不満を生み出す要因」は別物であるという結論に至ります。

2-2. 衛生要因(Hygiene Factors)

ハーズバーグが「衛生要因」と名付けたのは、不満を引き起こす要因群です。これらが整備されていないと、スタッフは強い不満を感じます。しかし逆に、これらが十分に整備されていても、それだけでは「満足」や「やる気」は生まれません。

訪問看護ステーションにおける衛生要因の主な例は以下の通りです。

「衛生(hygiene)」という言葉が示すように、これらは「病気を防ぐための衛生管理」に相当します。手を洗わないと感染症になるが、手を洗い続けても健康が増進するわけではない——そのアナロジーです。

2-3. 動機づけ要因(Motivators)

一方、積極的な満足感・やる気・定着意欲を生み出す要因群が「動機づけ要因(Motivators)」です。

これらの要因が満たされると、スタッフは「この職場で働き続けたい」という内発的動機を持ちます。逆に言えば、動機づけ要因が欠如している職場では、いくら給与を上げても離職は防げないのです。

2-4. 二つの要因の関係性

この二要因は、次のようなマトリクスで整理できます。

理想は「衛生要因を十分に整備した上で、動機づけ要因にも投資する」状態です。衛生要因のみに注力している経営者は、「不満は除去できているが、定着する理由がない」という中途半端な状態に陥っています。

3. 衛生要因の「落とし穴」|整備しても定着しない理由

3-1. 処遇改善加算への過度な依存

2012年以降、訪問看護ステーションでは処遇改善加算・特定処遇改善加算・ベースアップ等支援加算が順次整備されており、給与水準は着実に向上しています。多くのステーション管理者が「給与を上げた」という対策を講じてきましたが、それでも離職が止まらないという現実に直面しています。

ハーズバーグの理論から見れば、これは「衛生要因の整備」であり、不満の除去には有効ですが、積極的な定着意欲を生み出すものではありません。

重要なのは、「処遇改善加算で上がった給与は、スタッフにとって『もらえて当然』のものになっていく」という心理的現実です。給与の満足は持続せず、時間とともに「普通の状態」に戻ります。これを心理学では適応水準効果(Adaptation Level Theory)とも呼びます。

3-2. 休日・労働時間の改善だけでは足りない

「オンコールを減らした」「土日休みを増やした」という改善策も、衛生要因の整備に分類されます。これらは「不満の解消」には直結しますが、スタッフが「訪問看護という仕事をここでやり続けたい」と思う理由にはなりません。

むしろ、休日を増やすことで「オフのとき何もやることがない」という空虚感を生じさせ、逆に離職につながるケースも報告されています。仕事上の動機づけが低いとき、休日の増加は「転職活動の時間」に変換されてしまうことがあるのです。

3-3. 人間関係の改善は「必要条件」

職場の人間関係は、衛生要因の中でも特に重要視されます。ハラスメント、いじめ、孤立感はスタッフに強い不満をもたらし、即時の離職につながります。これを解消することは経営者の最低限の責任です。

しかし、「仲が良いだけ」の職場が必ずしも離職防止に機能するわけではありません。仲良しグループが一斉退職するという現象はその典型例であり、動機づけ要因が欠如している場合、職場の人間関係そのものが「転職の相談相手」として機能してしまいます。

4. 動機づけ要因への投資|定着率を変える本質的アプローチ

4-1. 承認(Recognition)の仕組みをつくる

動機づけ要因の中でも、即効性が高いのが「承認」です。訪問看護師は、利用者宅に一人で赴き、孤独に判断を下し、記録を書いて帰ってきます。その行為が「きちんと見られ、評価されている」という感覚を持てるかどうかが、定着に直結します。

具体的な承認施策の例:

  • 週次の1on1ミーティング(5〜15分でもよい): 「今週どんな利用者さんに関わりましたか?印象に残ったことはありましたか?」という問いかけから始める

  • ポジティブケース共有の習慣化: 朝のミーティングで「先週うまくいったこと」を持ち回りで発表する

  • 感謝カードや感謝チャット: Slack等のツールで「ありがとう」を可視化する

  • 利用者・家族からの声の橋渡し: 感謝の言葉をスタッフにフィードバックする文化をつくる

承認は、お金をかけなくてもできます。必要なのは「意図的な仕組み」と「管理者の習慣」です。

4-2. 成長機会の設計

「この職場にいると、自分は成長できる」という感覚は、強力な定着要因です。特に看護師は、資格取得・専門知識の深化に高いモチベーションを持つ職種です。

成長機会の設計例:

  • キャリアラダーの可視化: 「入職後〇年でケアマネ資格支援」「専門看護師・認定看護師への支援制度」など、明示的なキャリアパスを提示する

  • 勉強会・研修への参加促進: 外部研修の参加費支援、業務時間内での勉強会開催

  • OJTメンター制度: 先輩看護師が新人を担当し、経験の浅いスタッフに「教える役割」を与えることで、先輩側の動機づけも同時に高める

  • プロジェクト参加の機会: 「この業務改善プロジェクトを任せたい」という言葉は、スタッフに責任と成長の機会を与える

4-3. 仕事の意味・社会的使命の言語化

訪問看護という仕事は、本質的に「動機づけ要因の宝庫」です。在宅で最期を迎えたいという利用者の願いを支え、家族を安心させ、地域の福祉を担う——これほど「仕事の意味」が明確な職業は多くありません。

しかし、現場の忙しさの中で、その意味は見えにくくなります。管理者の役割は、その意味を意図的に言語化し、スタッフと共有し続けることです。

意味の言語化の例:

  • 「先月、〇〇さんのご家族から連絡がありました。最後まで自宅でいられたのはあなたのケアがあったからだと仰っていました」

  • 朝礼での「ミッション確認」: 「私たちの仕事は〇〇区の在宅療養を支えることです」

  • 個別目標設定時に「なぜこの利用者さんのケアをしたいのか」を話し合う

日々の業務の中に「意味のある物語」を見出すことができるスタッフは、たとえ給与が若干低くても、「この職場でなければできないことがある」と感じます。

4-4. 責任の付与と自律性の保障

「この利用者さんの担当者はあなたです」という言葉は、単なる業務割り当てではありません。それは「あなたを信頼し、任せる」という意思表明です。

訪問看護においては、担当制の適切な運用が定着に寄与します。ただし、責任の付与は「孤立させること」と区別しなければなりません。担当として任せながら、「困ったらすぐに相談できる体制がある」という安心感を同時に提供することが重要です。

5. 具体的な施策チェックリスト

以下のチェックリストを用いて、自ステーションの現状を点検してください。

衛生要因チェック(不満を除去できているか)

動機づけ要因チェック(積極的な満足をつくれているか)

スコアリングの目安:

  • 衛生要因チェック: 6/8以上 → 最低限の整備ができている

  • 動機づけ要因チェック: 5/10以上 → 定着戦略が機能している可能性が高い

  • 両方で低スコアの場合: まず衛生要因の整備から着手し、その後動機づけ要因に移行する

6. FOOTAGE の実践知見|「給料だけでは人は残らない」

6-1. 待遇改善後も続いた離職の実態

私たちFOOTAGEが訪問看護ステーションの運営を通じて痛感してきたのは、「待遇を改善しても、それだけでは離職は止まらない」という事実です。

処遇改善加算を最大限活用し、給与水準を引き上げた後も、スタッフが「なんとなく居心地が悪い」「将来が見えない」という理由で退職する事例を複数経験しました。ヒアリングを重ねるうちに、問題は給与ではなく「自分がここで成長できているか」「自分の仕事が誰かの役に立っているか」という、まさにハーズバーグが指摘した動機づけ要因の欠如にあることが見えてきました。

6-2. 承認と成長への投資が変えたもの

そこで私たちが着手したのは、次のような取り組みです。

管理者の1on1習慣化: 週1回の現状確認と課題解決の場を全スタッフと実施。業務の進捗だけでなく、「今週何に喜びを感じたか」を必ず聞くようにしました。これだけで、スタッフの「見てもらえている感」が大きく変わったという声を複数得ています。

ケースカンファレンスの活性化: 月1回のカンファレンスを「問題を共有する場」から「スタッフが臨床での問題意識を可視化する場」へと位置づけ直しました。事例を持ち寄り、学びを共有することで、「自分の経験が誰かの役に立っている」という動機づけ効果を生み出しています。

ミッションの繰り返し語り: 「地域の隅々まで、訪問看護のプロフェッショナルチームを」という言葉を、採用面接・入職オリエン・月次ミーティングで繰り返し伝え続けています。この「物語」を共有しているスタッフは、困難な状況でも辞めにくいという実感があります。

6-3. 定着率改善の費用対効果

動機づけ要因への投資は、基本的に「お金よりも時間と意図」の問題です。例えば、1on1のための30分/週を管理者が割り当てることのコストと、採用にかかる50〜100万円のコストを比較すれば、投資対効果は圧倒的です。

重要なのは、「やり方を知っている」だけでは変わらないということです。「仕組み」として習慣に埋め込むこと——これが、私たちFOOTAGEが開設支援・経営支援の中で最も力を入れてお伝えしていることの一つです。

FAQ|よくある質問

Q1. 給与を上げる余裕がない中小ステーションはどうすれば良いですか?

A. ハーズバーグの理論が示すように、給与だけが定着の鍵ではありません。動機づけ要因——承認、成長、意味——はほとんどコストをかけずに実施できます。まずは管理者が週1回の1on1を習慣化することから始めてください。月に1〜2時間の時間投資で、スタッフの離職意向が変わった事例は多数報告されています。給与改善は中長期の課題として取り組みつつ、今日から動機づけ要因の整備に着手することをお勧めします。

Q2. 1on1をやっても「特に何もないです」と言われて終わってしまいます。どうすれば良いですか?

A. 「困っていることはありますか?」という問いかけでは、問題がないときに会話が止まります。代わりに「今週、印象に残ったケアはありましたか?」「最近、自分が成長したと感じた瞬間はありましたか?」という肯定的な問いを使ってみてください。また、管理者自身が「自分はこう思っている」と先に開示することで、スタッフが本音を話しやすくなります。1on1は慣れるまでに3〜6ヶ月かかると考えてください。

Q3. 長く勤めているスタッフほど動機づけが下がっているように見えます。どう対応すれば良いですか?

A. いわゆる「マンネリ化」は、達成感や成長実感が失われた状態です。長期勤続スタッフには、「新しい責任」を与えることが有効です。新人のプリセプター、特定の利用者層(末期がん・認知症など)の担当、業務改善リーダーなど、新しい役割を設計してください。また、「あなたの経験とスキルをこのチームで活かしてほしい」という明示的なメッセージが、再燃の起点になることがあります。

Q4. スタッフが「給与が低い」と言っているのに、それは衛生要因だからと無視していいですか?

A. 絶対に無視してはいけません。衛生要因が欠如しているとき、スタッフは強い不満を持ちます。「低すぎる給与」は即刻の離職につながります。ハーズバーグの理論は「給与は重要でない」と言っているのではなく、「給与だけでは不十分」と言っているのです。まず衛生要因を業界標準水準以上に整備し、その上で動機づけ要因に投資する——この順序が正しいアプローチです。

Q5. 訪問看護の一人訪問による孤独感は、どの要因で対処すべきですか?

A. 孤独感は複合的です。「帰ってきたとき誰も話を聞いてくれない」という孤立は衛生要因(対人関係)の問題、「自分の判断が正しかったか不安」というのは衛生要因(安全・安定)の問題、「誰にも感謝されていない気がする」というのは動機づけ要因(承認)の問題です。訪問後に一言「大変だったね、お疲れ様」と声をかける文化と、ケアの結果が利用者・家族に喜ばれたことを共有する仕組みの両方が必要です。

まとめ

訪問看護における看護師の定着は、「給与と休日を整えれば解決する」という問題ではありません。

ハーズバーグの二要因理論が明確に示しているように、衛生要因の整備は「不満の除去」であり、それは定着の必要条件に過ぎません。スタッフが「ここで働き続けたい」と感じるためには、承認・成長・責任・仕事の意味という動機づけ要因への意図的な投資が不可欠です。

経営資源の乏しい中小規模の訪問看護ステーションにとって、これは実はチャンスでもあります。大手と同じ給与水準を出せなくても、「この職場でしか得られない成長」「この管理者でなければ感じられない承認」「この地域でしか果たせない使命」を提供できれば、スタッフは残ります。

定着戦略の優先順位:

  1. まず衛生要因を業界水準以上に整備する(特に給与・オンコール・ハラスメント対策)

  2. 管理者による意図的な承認行動を習慣化する

  3. キャリアパスと成長機会を可視化する

  4. ステーションのミッション・使命を繰り返し言語化・共有する

  5. 長期スタッフに新しい責任と役割を与える

これらを「仕組み」として組み込んだとき、初めて定着率の改善が数字に現れます。「人が辞めない訪問看護ステーション」は、偶然の産物ではなく、意図的な経営設計の結果です。

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