訪問看護の"暗黙知"をどう残すか|野中郁次郎のSECIモデルで考えるナレッジマネジメント

「あのベテランが辞めてから、ターミナルケアの質が明らかに落ちた」。訪問看護ステーションの経営者や管理者の方であれば、こうした経験に心当たりがあるのではないでしょうか。

長年の経験を積んだスタッフが退職するたびに、言葉にしにくい「勘」や「判断力」が組織から静かに失われていく。この問題は、単なる人手不足とは本質的に異なります。失われているのは「人」だけではなく、「知識」そのものです。

本記事では、経営学者・野中郁次郎氏が提唱した「SECIモデル」を手がかりに、訪問看護の現場で暗黙知をどう残し、組織の力に変えていくかを考えます。私たちFootageの実践事例も交えながら、具体策をお伝えします。


訪問看護で知識が失われやすい構造的背景

訪問看護の最大の特徴は、「一人完結型」の業務形態にあります。病棟看護であれば、隣のベッドで先輩の動きを自然に観察できます。しかし訪問看護では、利用者さんの自宅にスタッフが一人で向かうのが基本です。

この業務構造が意味するのは、知識が個人の内側に閉じやすいということです。ベテランスタッフが「この利用者さんは表情の微妙な変化で体調悪化がわかる」と感じていても、その判断プロセスは本人の頭の中にしかありません。

厚生労働省の「令和4年度介護従事者処遇状況等調査」によれば、訪問看護ステーションの離職率は依然として高い水準にあります。一人のベテランの退職が組織全体のケアの質に直結するのが訪問看護の構造的な課題です。

経験年数10年以上のスタッフが持つ「急変の予兆を察知する力」「家族との信頼関係の築き方」「医師への的確な報告のタイミング」。これらは、マニュアルのどこにも書かれていません。


野中郁次郎のSECIモデルとは何か

一橋大学名誉教授の野中郁次郎氏は、著書『知識創造企業』(東洋経済新報社、1996年)の中で、組織における知識創造のプロセスを体系化しました。この理論の核にあるのが「SECIモデル」です。

まず前提として、知識には2つの種類があります。暗黙知とは、言葉やデータで表現しにくい知識です。「なんとなくこの患者さんは今日調子が悪そうだ」という直感がこれにあたります。形式知とは、文章・数値・図表などで明確に表現できる知識です。

SECIモデルは、この2種類の知識が4つのフェーズを経て変換・創造されていくプロセスを示しています。

共同化(Socialization)は、暗黙知から暗黙知への変換です。直接的な体験の共有を通じて、言葉にならない知識を他者に伝えます。

表出化(Externalization)は、暗黙知から形式知への変換です。「なぜそう判断したのか」を言葉や図に落とし込むプロセスです。暗黙知が初めて他者と共有可能な形になる、極めて重要なフェーズです。

連結化(Combination)は、形式知から形式知への変換です。言語化された個別の知識を体系的に整理・統合します。

内面化(Internalization)は、形式知から暗黙知への変換です。体系化された知識を実践で試し、自分自身の「身体知」として取り込むプロセスです。

この4つのフェーズが螺旋状に繰り返されることで、組織の知識が拡大・深化していくと野中氏は述べています。


訪問看護における知識創造の4フェーズ

共同化:同行訪問で「見て学ぶ」

訪問看護における共同化の代表は、同行訪問やOJTです。新人がベテランと一緒に利用者さんの自宅を訪れ、観察の視点やコミュニケーションの間合いを「見て感じる」。この体験共有が暗黙知の伝達の出発点になります。

ただし、一人完結型の業務では同行訪問の機会そのものが限られます。共同化の場をいかに意図的に設計するかが最初の課題です。

表出化:「なぜこのケアを選んだか」を言語化する

共同化で感じ取った暗黙知を言葉にして共有するのが表出化です。カンファレンスの場で「なぜ体位変換の頻度を上げたのか」と問いかけ、判断の根拠を言語化してもらうことが該当します。

多くのステーションでは、カンファレンスが「情報共有」で終わりがちです。「なぜ悪化の兆候に気づいたのか」「どの観察ポイントが決め手だったのか」まで掘り下げて初めて、表出化が機能します。

連結化:マニュアル・DXツールで知識を体系化する

言語化された知識を組織全体で活用できる形に整理するのが連結化です。ケアプロトコルの文書化、バイタルデータの一元管理、事例集の作成などがこれにあたります。

内面化:新人が自分のケアに落とし込む

体系化された知識を新人が実践で試し、自分自身の判断力として内面化します。マニュアルを読んだだけでは暗黙知にはなりません。実際に現場で試行錯誤し、「こういうことか」と腑に落ちる経験を経て初めてその人自身の力になります。


Footageの実践事例——SECIモデルが現場で回る仕組み

臨床推論文化——「なぜ」を問うカンファレンス(表出化)

Footageの定例カンファレンスでは、「何をしたか」の報告だけでなく「なぜその判断に至ったか」を必ず共有するようにしています。

たとえば褥瘡ケアで体位変換のタイミングを変更した場合。「皮膚の発赤の範囲が前回より拡大傾向にあり、現在の栄養状態も考慮すると予防的に頻度を上げるべきだと判断しました」という臨床推論のプロセスまで共有します。

この「なぜ」の言語化こそが、SECIモデルにおける表出化そのものです。ベテランの頭の中にある暗黙知が、チーム全体の学びに変わる瞬間です。

DXツール活用——バイタル推移のリアルタイム同期(連結化)

Footageでは、利用者さんのバイタルサイン推移をデジタルツールでリアルタイムに共有しています。データが時系列で可視化され、担当以外のスタッフも確認できます。

このDX基盤は連結化のフェーズを支えるインフラとして機能しています。「あのスタッフしか知らない」という状態を構造的に防ぐ仕組みです。

多職種チーム体制——知識融合の場(共同化)

Footageでは看護師とPT・OT・STがチームとして利用者さんに関わっています。異なる専門性を持つスタッフが同じ利用者さんについて対話することで、お互いの暗黙知に触れる機会が自然に生まれます。


経営者・管理者が明日から実践できる3つの具体策

1. カンファレンスに「なぜ」の問いを1つ加える

事例報告の後に「その判断に至った一番の理由は何ですか」と問いかける時間を設けてみてください。最初は5分で構いません。ベテランの「当たり前すぎて言語化したことがない」判断基準が、若手にとっては宝の山です。

2. 同行訪問を「知識資産への投資」と位置づける

月に数回でも「意図的な同行訪問」の枠を設け、その後に短い振り返りの時間を設けるという仕組みが有効です。同行した新人に「何が印象に残ったか」を言語化してもらうことで、共同化から表出化への橋渡しが生まれます。

3. デジタルツールで「記録」を「資産」に変える

既存の電子カルテやクラウドツールの共有設定を見直し、「担当者以外もアクセスできる」状態を作ることが第一歩です。記録が「報告義務の履行」で終わらず、組織の知識資産として蓄積される仕組みを整えてみてください。


まとめ——知識を「個人の財産」から「組織の力」へ

訪問看護の現場には、数値化できない豊かな知識が存在しています。利用者さんの表情の変化から体調悪化を予測する力。ご家族の不安を和らげる声かけの技術。これらはすべて長い経験の中で培われた暗黙知です。

野中郁次郎氏のSECIモデルは、この暗黙知を「消えゆく個人の財産」で終わらせず、「成長し続ける組織の力」へと転換するための道筋を示しています。共同化で体験を共有し、表出化で言語化し、連結化で体系化し、内面化で自分のものにする。この循環を意識的に回すことが、人が入れ替わっても揺るがないステーションづくりにつながります。

「ベテランが辞めても、ケアの質を守れる組織をつくりたい」。そうお考えの経営者・管理者の方は、ぜひ一度、ご自身のステーションの知識の流れを振り返ってみてください。


訪問看護ステーション開業支援の詳細はこちらをご覧ください。


参考文献: 野中郁次郎・竹内弘高『知識創造企業』東洋経済新報社、1996年 / 厚生労働省「令和4年度介護従事者処遇状況等調査結果」/ 日本看護協会「2022年 病院看護・助産実態調査 報告書」

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